人間は、崇高で素晴らしい存在にもなり得るし、愚かで卑劣な存在にもなり得えます。愚かさ卑劣さの究極の象徴が戦争ですが、いじめも愚かさ卑劣さの象徴の一つです。
2,3年生には昨年、人をいじめてはいけないという説教ではなく、「もっと人間を勉強しよう!自分の意志、みんなの力で素晴らしい方向に向かって行こう!」との思いで、40分間「いじめと人権の話」をしました(画像1,2はその時のひとこまです)。
越中生一人一人の受け止めに目を通しましたが、今まで気付かなかったことに心が揺さぶられた人、ハッとしたことがあった人もたくさんいました。一人一人が自分の弱さとしっかり向き合い、これからの生活で、自分の行動の見直すべき点を挙げ、考えをまとめてくれました。
あれから1年が経ちました。12月に入り、全学年で人権学習がスタートしています(画像は昨日の3年生のひとこまです)。世の中には不当な差別があります。今なお様々な差別が残っていることや差別の根底には人の心の弱さや違いを認めない心が関係していることなどに気付いたり、怒りや憤りを感じたりすることもあることでしょう。
様々な人権問題や差別の現実に向き合い、「人としての自分の生き方を見つめ直す学び」はとても大切です。
人間が生きていく上で、最も簡単なことは何でしょう?最も難しいことは何でしょう?と問われれば、どう答えるでしょうか。
私は「人のせいにすること」、「弱い自分を自覚して、その自分に向き合うこと」と答えます。
私たち大人もそうですが、これからの社会を支える大事な宝である越中生には、「感性と想像力」を磨いて、自分もほかの人も幸せになれるように、本気で強く、賢くなってほしい。そう願い続けています。
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レッテル貼り、決め付け、悪口、陰口、うわさ、いじり等々、自分が(自分たちが)正しいのだと思い込むことは、偏見につながったり、大きな落とし穴に陥る危険が潜んでいます。
人はだれでも心の弱さがありますが、「どう行動するかは自分次第」です。人権問題の一つとして、身近ないじめについて一人一人がしっかり向き合い、考えていかなければならない。あらためてこのことをみんなで確認してほしいのです。
正しい判断も間違った判断も自分次第です。たった一度の間違った判断でしたことが取り返しのつかない心の傷を負うこともあります。
日々、その判断の積み重ねによって、人間として素晴らしい方向に昇っていくのか、愚かな方に降りていくのか・・・。それは、一人一人が毎日生きていく中での学びにかかっています。
いじめはいけないことだと知っています。でも知っていると分かっているは違います。分かるとはできることです。
いじめ見逃しゼロとは、いじめられている人もいじめている人も救うということです。自分も他の人も幸せになるということです。
あなたの身近にいじめはありますか? もし あるとしたら あなたは いじめを受けている人ですか? いじめをしている人ですか? いじめを止めようとしている人ですか? それとも いじめと分かっていながら 何もしない人ですか?
越中生には、こうした問い掛けに、感性や想像力を働かせ、自分が、自分たちが、何ができるか、何をすべきかを考え、勇気ある行動に踏み出してほしい。
日々、自分の(自分たちの)判断や行動をしっかり見つめながら、賢く成長してほしい。
これからもそう願い続けていきます。