明日は8月1日。午前9時からはアオーレ長岡で「長岡市平和祈念式典」が開催され、県内唯一の大規模戦災都市として、戦没者の追悼と恒久平和の尊さを世界に発信します。今年も式典には越路地域の小・中学生の代表が参列します。
昭和20年8月1日の長岡空襲殉難者は1486人、日中戦争及び太平洋戦争における長岡市出身の戦没者数は8996人(内越路地域は618人)とされます。
2年前は戦後70年の特別な夏でした。長岡空襲により犠牲になられた方々を悼み、悲惨な戦争の記憶を風化させることなく、平和の尊さを後世に語り継ぎ、広く世界に向けて発信する「長岡市恒久平和の日条例」が8月1日から施行されました。
さらに、長岡市の中学生15名とホノルル市の青少年8名が、互いに両市で平和への歴史を学び交流することで、若い自分たちに何ができるか考え、相互理解を深め、真珠湾での終戦記念行事「青少年平和交流サミット」で「平和サミット宣言」を世界に向けて発信しました。
今年も8月1日には72年前の長岡空襲の始まった時刻(午後10時30分)に慰霊の花火「白一色の尺玉〜白菊3発」が打ち上げられます。空襲で尊い命を失った方々への慰霊、復興に尽力された先人への感謝、恒久平和への願いが込められています。
明日から3日間、今年も長岡まつりを迎えます。2日、3日は全国屈指の大花火大会も開催され、全国から花火を堪能する人たちが訪れます。
今を生きる私たちは、こうして生活できることに改めて感謝するとともに、今日の積み重ねが明日の平和を築くことを肝に銘じなければなりません。
次代の共生社会を担う越中生にも、自分の幸せと他の人の幸せを実現するために、何ができるか、何をしなければならないか、よりよく考え、判断し、行動していかなければならないことを再認識する節目にしてほしい。そう願っています。
来たる8月6日(日)の広島平和記念式典に派遣される越中生岩野さんの入賞作文をここで紹介します。
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「長岡市から世界へ」
「日本は平和で良かった。」
国と国とが争う報道をテレビや新聞で知っても、どこか遠い所の出来事で自分とは関係がないように感じる私はそう思っていた。
しかし、北朝鮮の核開発や、ミサイル発射の報道が頻繁にされるようになると戦争への恐怖が身近に感じられるようになった。日本はミサイル攻撃をされたらどうやって守ればよいのだろうか。朝鮮半島に近い新潟県に住む私は恐ろしさが強くなり、再び戦争が起こることへの不安で頭の中が一杯になった。それは、私達の身近にも戦争の爪痕が残っているからである。
私は以前に祖父が戦時中に避難した防空壕を見に行ったことがある。私の住む街、長岡市は今から72年前に空襲に遭った。第二次世界大戦の時である。当時多くの人の避難場所となっていた防空壕は長い年月を経た今では草や木で覆われていて、当時を知らない私にとっては本当に防空壕かと疑う程であった。
だが、そこは紛れもない戦争の痕跡であり、長岡大空襲を体験された方にとっては忘れることのできない場所に違いない。
祖父の姉が空襲について「長岡の街がすごく真っ赤で恐ろしかった。その頃の状況は今でもはっきり覚えている。」と話してくれた。戦争当時、祖父の姉はまだ2歳である。空襲の時の惨状や恐怖が自分自身の心や体に焼き付いて忘れられないのだろう。
戦争…、それは自分の国や世界を守るどころか多くの人たちの命を奪い、不幸にしてしまう。生まれ育った国や環境、信じているものが違うならば、考え方も違って当然だと思う。そこから対立が生まれるのは仕方ないことなのかもしれない。
しかし、国同士の対立を戦争で解決するのは間違っている。それにも関わらず人間は過去に何度も戦争を引き起こしている。勝敗に関係なく多くの犠牲を出し、命を奪い、悲しみ、たくさんの悲劇が繰り返されている。こうした歴史を無駄にしないために、戦争や核兵器が引き起こす悲惨さを世界の人々に正確に理解してもらうべきではないだろうか。そして、対話での解決を目指すべきだと私は思う。
では、そのために私にできることとはいったい何だろうか。
今の長岡の街はきれいに整備されていて、72年前に空襲があったとは戦争を知らない世代には想像がつかない。だからこそ、祖父や祖父の姉が戦争の頃の思い出を忘れないで私に伝えてくれたことに感謝したい。そして、長岡市が受けた悲劇を絶対に繰り返させないために、私達の世代がこの悲惨さを後世へと伝えていかなければならない。それがこの街に生まれ、祖父から空襲の歴史を学んだ私にできることなのだから。
伝えていこう、平和な世界を創っていくために。
(画像は昨年8月1日のものです)