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26日 宮本小150年のあゆみ2(明治半ばの頃)

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長福寺さんを仮校舎として学校が始まり、翌明治8年に新保甲(現在の宮本小の辺り)に新しい校舎が出来、東方校の本校となりました。その分校として大村校(現在の大積小)と関原校(現在の関原小)ができ、明治16年に2つの分校は独立しました。明治22年、宮本、東方、堀之内が合併し宮本村になり、校名は「宮本小学校」になり、明治25年には、宮本尋常小学校と改まりました。

この頃の修業年限は3年か4年だったそうです。明治18年の児童数は前年より50人以上減り90人、明治19年には46人です。社会の不況や凶作が原因でした。その後は女子児童の入学も増え明治25年には150人を超えます。

一方、この頃にはこんな話もあります。やむをえず学年途中で退学しなければいけない子もいたそうです。その退学理由は、裁縫や農業などの「家事手伝い」、「子守」などが多かったそうです。

写真の「わがふるさと宮本」「宮本校百年のあゆみ」から引用したり参考にしたりして記事作成をしています。

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