★★★学校生活の様子を写真と文で紹介します。★★★
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22日 可愛い子猫が

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朝、校長室で澄ますと、虫の声が聞こえます。お盆前はまだ聞こえなかった秋の虫たちです。季節は夏から秋に移ってきたと確実に感じます。しかし今日は気温が上がりました。2時頃に3階の教室に行くと、温度計は34度を指していました。今日は、真夏のようでした。

さて、今朝は校長室で耳を澄ますと、ミャーミャーという小さな声が聞こえてきました。校長室から外を見ると、窓の下のすずしい所に体長は20センチほど、生後1か月くらいの子猫がじっとしていました。親猫とはぐれたのでしょうか、元気がありません。しばらくするといなくなったのですが、お昼くらいに戻って来ました。鳴き声も動きも朝と比べると元気がありません。明らかに衰弱していました。今日の暑さを考えると、命の危険さえ感じました。

そこで、猫好きの職員、動物飼育に詳しい職員たちと相談し、関原町にある動物愛護センターに相談しました。子猫は引き取ってもらうことになり、早速お届けに行きました。
これが子猫にとって1番よかったのかなと思います。

19日 校舎のメンテナンス

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夏休み、子どもたちが登校しないないうちに、学校施設の点検や清掃などが校内各所で行われています。消防施設の点検、地下タンクの清掃、外壁の耐震調査、高架水槽の点検、給食施設やエレベーターの点検などです。

今日は、外窓を清掃する業者さんが来校されました。学校の窓は、落下防止など安全を確保するため、15センチほどしか開きません。そのため、普段は窓の外側をふくことが出来ません。そこで学校の高い所(2階と3階)は業者さんにお願いすることになっています。長いブラシとホースを使い、丹念に作業をしてくださいました。しばらく近くで見学させてもらいましたが、上ばかり見ていたので、首が痛くなりました。

18日 宮本小150年のあゆみ16 卒業制作(令和元年度、令和2年度)

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写真上は現在中学3年生が作成したおみくじカレンダー、写真下が中学2年生が作成した教室表示です。

過去の卒業制作を見ると、大作が多く、完成まで多くの時間を要しています。その頃から時代が移りました。その時の担任と卒業制作について意見交換をしました。6年生の時間的余裕、児童数の減少、予算などから考えて、卒業制作は行わないことにしました。しかし、卒業間際になり6年生から「後輩たちのためになる物を残したい」という意見が出ました。

新型コロナのため臨時休校になり、それに負けずギリギリまで作品作りに取り組んで現中3生、完成した表示を持って各教室をまわり表示を設置してくれた現中2生、そんな様子が目に浮かんできます。

令和2年度の卒業制作を最後の作品と考えています。

17日 宮本小150年のあゆみ15 卒業制作(平成26年度、29年度、30年度)

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写真上は、平成26年度の卒業生作の「四字熟語、ことわざ、格言」の短冊です。体育館と階段おどり場に掲示されています。全部で71枚ありました。当時の6年生が、色々と調べ、自分に対して、そして後輩たちへのメッセージなのだろうと思います。

写真中は、29年度の卒業生作の「校舎案内図」、写真下は30年度の卒業生作の「下駄箱の学年表示」です。「こんなものが学校にあるといいなあ」という発想で、卒業生たちが相談して決めたのではないかと思います。どちらも児童玄関付近にあるので、毎日何気なく見ています。


16日 宮本小150年のあゆみ14 卒業制作(平成11年度、23年度、25年度)

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写真上は、体育館のステージ側のバスケットのボードです。子どもたちのお手製で、小さく1999年5年生とのサインがあります。5年生なので卒業制作ではなく、図工の時間に行った共同作品だと思います。現在35才くらいの方々の作品です。今の子どもたちも、よくこのボードを使ってバスケを楽しんでいます。

写真中は、各階の廊下に表示されている、「はさみ」の表示板です。平成23年度卒なので現在は23才くらいの方々です。はしらない、さわがない、右側通行という約束をメッセージとして伝えてくれています。

写真下は、体育館の入り口に表示されたスローガン「笑顔のさわらびっ子」です。25年度卒なので現在21才くらいの方々です。体育館入り口の上に設置されています。私は、体育館から廊下に出る時に毎回、このスローガンを見て少し笑顔をつくり、体育館を後にします。


15日 宮本小150年のあゆみ13 卒業制作(平成4年度)

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写真上は平成4年度のもの。20センチ四方の板に各自が植物をモチーフに彫刻をし、
その板をはめ込み、大きな額になっています。そこに花いっぱい運動の写真などを貼ることが出来ます。体育館に向かう廊下に設置してあります。植物を大切に育てている宮本小らしい作品です。

写真下は、子ども会の歌の歌詞を彫刻したものです。残念ながら作成年の記載がありませんが、木に彫刻を施す作品がこの頃多くあるので、平成の初めの頃なのではないかと予想します。もし違っていたらご指摘ください。

12日 宮本小150年のあゆみ12 卒業制作(昭和63年度、平成2年度)

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昭和63年度卒、平成2年度卒の皆さんの制作なので、現在40代半ばになってる方々です。

写真上は昭和63年度卒の作品、『さわらびのちかい』の銅板レリーフです。銅板に誓いの3か条を書き、それを打ち出したものです。児童玄関の壁面に堂々存在感を示しています。昭和の時代に作られたこの3か条は、こんなふうに伸びていってほしいというさわらびっ子への願いが込められています。

写真下は平成2年度の作品、教育目標の彫刻です。『ただしく かしこく たくましく』の文言は、ちょうどこの年度に出来たものです。ですから、学校からこれを卒業制作として作ってほしいという希望があったのかもしれません。この教育目標は、現在も継続しているものです。

10日 宮本小150年のあゆみ11 卒業制作(昭和61年度)

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体育館や廊下には、宮本小を巣立っていった6年生が、卒業を記念して作った共同作品が掲示や設置がされています。

確認できるなかで最も古いのは昭和61年度の卒業生のもので、体育館背面の高い所に設置されています。とび箱やバスケなど、子どもが運動している場面を彫刻で表現し、それを貼り合わせてあります。たて1.5m横1.5mの大作です。全部で板が49枚あります。この時の6年生は2クラスで49人ですので、各自が1枚を丹精込めて作り、それを合わせたのではないかと思います。

昭和61年度の卒業生の方は、昭和49〜50年生まれの方なので現在47〜48才の方です。思い出話などございましたら是非お寄せください。

今日から数回に分け、学校に残る卒業制作を写真と共に紹介します。

9日 宮本小150年のあゆみ10(さわらびの由来)

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さわらびっ子、さわらび児童会、さわらび音楽会など、宮本小には「さわらび」がつく
名称や活動がたくさんあります。「さわらび」の由来を知るため、昨年、学校だよりで呼びかけました。すると、児童の祖母の方から丁寧なお手紙をいただき、当時の状況が分かりました。

その手紙には次のことが書かれていました。
児童会の名前に「さわらび」がついたのは、プールが出来たのと同じ年、昭和41年(1966年)今から56年前だそうです。昭和29年・30年生まれの学年が6年生になった時です。児童会に名前がなく、名前を付けようとなったそうです。投票で決めることになり、
「さわらび」「あすなろ」、そしてもう一つの候補から「さわらび」に決まりました。なぜさわらびかと言うと、その年の春、全校の児童が、わらび採りをして児童会の資金にしたそうです。ちなみに、さわらびとは子どものわらびのことで、担任の先生から「やがて皆もさわらびのように大きく成長していくのだ。」というはお話しを聞いたそうです。


8日 宮本小150年のあゆみ9(プールが出来た)

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宮本小にプールが出来たのは、昭和41年(1966年)今から56年前です。

子どもたちは、プールがなかった頃は、黒川や河久保川などの川で泳いでいました。各町内ごとに、泳いでもよい場所は決められていたそうです。女子は水着ですが、男子の大部分はふんどしで泳いだそうです。低学年の子は、高学年の子からしめ方を教えてもらったそうです。

そして、念願だったプールが完成しました。プールは、宮本中の子どもたち、大積小の子どもたちと共同で使いました。水は、地下水を引いたため冷たかったそうです。学校に当時の写真が残っています。写真上はプール建設時のスナップ写真、写真中は子どもたちの様子です。写真下はプール開きですが、長岡南中学校水泳部の生徒が模範水泳を行ったそうです。



5日 夏休み14日目です

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夏休み、いかがお過ごしですか。

(写真上)スマイルガーデンの植物、スプリンクラーの水を得て、元気に咲き誇ってい
ます。花と同じほど、雑草も元気です。

(写真中)2年生が色々な野菜を育てています。たわわに実るとは正にこのことですね。
 お日様をたっぷり浴びた完熟ミニトマト。1コいただきましたが、店頭に並んでいる
どのミニトマトより新鮮かつ甘いです。

(写真下)校長室から撮ったゴーヤのツルです。今日収穫したゴーヤを手前に並べまし
たが、窓の外のツルには、生長途中のゴーヤがたくさんついています。

夏休み中盤を迎えました。長いお休み、夏バテや体調を崩しそうな人もいるかもしれません。野菜など栄養のあるものを食べ、規則正しい生活をし、運動もし、元気いっぱい過ごしてください。ガンバ!

4日 中学校区研修会

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今日は、午後に中学校区の研修会を青葉台中学校を会場にして行いました。第1部は、小中学校教職員の研修です。学力向上部会、小中交流部会、家庭・保健安全部会などに分かれ、7月まで行ってきた取組の進捗について話し合いました。各校の頑張りや課題を聞き合うことで、得るものも沢山ありました。

第2部は、学校運営協議会(コミュニティスクール)研修会でした。今日は、各学校単位でグループを作りました。宮本在住の運営協議委員さんとPTA三役さんと教職員が、宮本の子どもたちの良さやもっと伸ばしたい点などについてたっぷり話し合いました。色々な話題が出ましたが、「子どもたちは宮本の宝だ、地域の人たちは、皆そう思っています。」という発言がありました。私も心からそう思いました。有意義な協議会でした。

3日 校門

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昨日は、昭和14年と昭和19年の卒業写真を紹介しました。では、宮本小の校門、これはいつ頃できたと思いますか? 

答えは昭和16年です。日本では大きな戦争が始まった年です。門柱の裏に、消えかけた薄い文字で、昭和16年宮本青年團寄贈と記されていました。今から80年以上前になります。辛い戦争を超え、風雪にも耐え、長きにわたり、宮本小の子どもたちを見守ってくれました。長い年月により、表面の宮本小の文字も消えかけ、校門全体もかなりのいたみがありました。

そこで2年前、表面の「宮本小」と裏面の「昭和16年宮本青年團寄贈」の文字や門柱を修繕しました。

2日 子どもの服装の変遷

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写真上は、大正10年つまり今から100年前の尋常科卒業生、写真中は昭和14年の尋常科卒業生、写真下は昭和19年の初等科卒業生です。
3枚を見比べると色々なことに気づきます。

大正期は男女とも着物ですが、昭和に入ると学生服の男子が増えてきます。季節も関係するのでしょうが裸足の子も大勢います。また、びっくりすることに女子は一人も写っていません。男女別の学級になっていたという記録はありません。けれど、こういう場面では男女を分けられたのかもしれません。戦争末期の昭和19年頃には男女とも着物はいなくなり、男子は学生服、女子はセーラー服にかわってきました。髪型は、男子はいつの時代でも坊主刈り、女子はおかっぱにかわりました


1日 明治時代の卒業写真

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書籍『わがふるさと宮本』に明治43年度高等科卒業生という写真が載っており、「宮本小学校にある最も古い卒業写真です」という注釈があります。そこで校内を色々と探しましたが、残念ながら見⁰つかりませんでした。

その写真の前列、左から3番目、学生服風を着ている男性は、学生ではありません。第4代校長の中野象吉です。校長室に飾られている歴代校長の写真で確認しました。前列にはもう2人、学生服風を着てひげを生やしています。多分この方も教員なのでしょう。中村校長の隣にいる立派な髭の方を生やし腕を組んだ和服の方、この写真のなかで最も堂々としています。教員なのでしょうか。

明治後半の學籍簿を見ると、退学と記載された人はほとんどいません。だから、卒業を記念して写真撮影したのではないかと推察します。この頃の子どもの服装は、男子は普段は縞の木綿、女子も木綿の着物でした。卒業など特別の式では、男子はかすりの着物、女子は染めがすりとはかまでした。一人一人の顔を見ると大人びて見えますね。



29日 学校に残る最も古い資料(學籍簿)

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校長室耐火書庫の奥に、『東方小學校學籍簿』明治廿年6月改正という冊子を見つけました。『宮本小學校生徒學籍簿』という冊子もありました。宮本小にかかわるものの中で最も古い資料なのではないかと思います。

表紙をめくると、番号1、山田文七、明9年2月入学、生年令5-8とあります。親の氏名と職業、住所、退学の場合の理由などが書かれています。番号2野中佐平、番号3小島八蔵、番号4松原辰治、番号5関野三七・・・・・・と続きます。入学時の年齢は、
5才、6才、7才、8才と人により違い、入学月日もまちまちです。卒業も3月に一斉にするのではなく、何年か学び、それぞれの家の都合で退学していくというふうです。 
親の職業は、ほとんどが平民農、たまに平民商と記されています。士族と書かれた春山という人がいました。

現在の学校は、入学や卒業は同年齢の子と一緒というのが一般的ですが、当時の学校はそうではなかったようです。

28日 児童会交歓会

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きのう、長岡市の小学校『児童会交歓会』があり、宮本小は6年生の3名が参加しました。昨年、一昨年はコロナ禍で開催が出来ず、3年ぶりの会でした。今回は市立劇場に全員が集まって行う予定でしたが、感染者が増えており、急きょオンラインでの開催になりました。

10か校ほどがグループになり、「あいさつ」「全校が仲よくなるためにどんな活動をしているか」などをテーマに協議を行いました。参加者は、児童会活動の中心を担う子どもたちです。どの学校にも似たような課題もあります。悩みや対策などを話し合うことで、今後の活動に役立つヒントも得たようです。実りある話し合いが出来たと思います。宮本小の子どもたちも、堂々とした態度で進行や意見発表をしていました。


宮本小150年のあゆみ3(校旗)
職員玄関に入った所のカベに、額に納まられた校旗があります。大正11年作製という刺繍が施されています。縦1m、横1.2mある重々しいものです。沿革誌には、この年に学章が制定され校旗が樹立されたと記されています。

沿革誌とは、学校の歴史や変遷を書き記したものです。どの学校の耐火書庫にも保存されており、永年保存です。学校での出来事、児童数などが記されていますが、初期の沿革誌には教職員の履歴や給料などの記載もあります。達筆な筆さばきで、びっしり書かれています。現在の沿革誌はパソコンで作成します。

27日 宮本小150年のあゆみ3(明治後半)

校長室の耐火書庫に、初代校長中山仁和の履歴書が残されています。毛筆で達筆な履歴書です。中山さんは、明治30年(1897年)から校長として勤務しました。と言うことは、創立からこの年までは校長はいなかったようです。中山さんは文久3年(1963年)鳥越で生まれ、当時35才くらいだったようです。ちなみにこの履歴書には、月俸金拾四円という記述もありました。

子どもたちは、習字の時間だけでなく、他の勉強の時も筆を使ったそうです。だから、机の上にはいつもすずりがあったそうです。大人も子どもも筆で文字を書くことが一般的、だから大人も子どもも上手だったんでしょう。

この頃、宮本尋常小学校は4年生終了で卒業でした。5年生に進みたい子は関原小に通ったそうです。歩いて関原まで行ったのでしょう。宮本にも5年生と6年生の学級ができたのは明治41年、全校児童は230人くらいでした。翌42年には、高等科もでき宮本尋常高等小学校になりました。高等科とは、尋常6年を卒業した子が2年間通います。今でいうと中学校のようなところです。高等科への進学は義務ではありませんが、児童数は300人を超えました。学校が創立された明治初め、女子は少なかったですが、この頃はかなり増えたそうです。

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26日 宮本小150年のあゆみ2(明治半ばの頃)

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長福寺さんを仮校舎として学校が始まり、翌明治8年に新保甲(現在の宮本小の辺り)に新しい校舎が出来、東方校の本校となりました。その分校として大村校(現在の大積小)と関原校(現在の関原小)ができ、明治16年に2つの分校は独立しました。明治22年、宮本、東方、堀之内が合併し宮本村になり、校名は「宮本小学校」になり、明治25年には、宮本尋常小学校と改まりました。

この頃の修業年限は3年か4年だったそうです。明治18年の児童数は前年より50人以上減り90人、明治19年には46人です。社会の不況や凶作が原因でした。その後は女子児童の入学も増え明治25年には150人を超えます。

一方、この頃にはこんな話もあります。やむをえず学年途中で退学しなければいけない子もいたそうです。その退学理由は、裁縫や農業などの「家事手伝い」、「子守」などが多かったそうです。

写真の「わがふるさと宮本」「宮本校百年のあゆみ」から引用したり参考にしたりして記事作成をしています。

25日 宮本小150年のあゆみ1(開校)

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来年、創立150年を迎えます。そこで夏休み期間中、宮本小に残る写真や記録をもとに歴史を紐解いていきたいと考えています。今日は、その第1回です。

明治7年(1874年)1月8日、東方の長福寺を仮校舎として公立宮本校が開校しました。3枚の写真は、3年生と4年生の子どもたちが、それぞれ2年生の時に長福寺さんを訪問した時のものです。

明治5年に学校制度が政府から出され、国民全員が平等に教育を受けるという方針を示していました。しかし、全国どこも男子が在籍数の多くを占めいていました。宮本校の児童数218名のうち男子が195名、女子が23名でした。また、現在のように入学式があり6歳の子が同じ日から学び始めたわけではありません。家庭の都合により、一人一人の入学期日、通学した期間もまちまちでした。

この頃の学習は、「読み、書き、そろばん」が中心、1日5時間目までの授業だったそうです。昼ご飯はどうしていたかは不明です。


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