学校概況

1.学区について

当学区は長岡市のほぼ中心を占めており、柿川をはさんで東部は商業地になっている。ここは当時、問屋すじが軒を並べて建っており、戦前は長岡における商取引のいわば心臓部であった。  西部は以前農家が多かったが、次第に職業の切替や宅地転換が行われ、住宅が密集し、いわゆる給料生活者がその大半を占めるようになってきている。  学区民は設立当初より教育に対する熱意が強く、長岡市教育の先駆となる気構えに燃えている。  一方商道気質による質素の気風と、幾多の災火から立ち上がった忍耐強さ、さらには、歴史と伝統に生きる誇りをもっている。

2.学校について

当初私学校であったが、戊辰役後、教育の普及こそ地域振興の基であるとし、有識者、町年寄一同により学校設立が唱道された。明治4年10月、県庁に願書が提出され、その月の15日、学校開設の式が挙行された。

その年12月2日、官許の学校として柏崎県庁より式部静蔵氏、安田修蔵両氏に対し、教師辞令が下布された。児童は漢学73、算学69、習学68、併せて210名。

3.前庭の像「たからかに」の由来

「たからかに」

前庭の噴水池には元々水鳥の像があった。それが、雪のため損壊したので撤去した後、しばらくは台だけが残っていた。そこで、昭和52年に空いている台に何か町校のシンボルとなる像を設置しようという動きが起こり準備が始まった。この当時、「自ら学びとる子ども」「感動する心をもって意欲的に生きる子ども」を目指して行われていた町校の教育から、ここに設置する像は、生き生きとした子どもの姿を表すこととされた。

そこで、関原町在住の彫刻家元井達夫氏(ハイブ長岡の米百俵像制作監督)にブロンズ像作成を依頼し、昭和53年度に完成、3月24日に除幕式が行われた。制作されたものは、「未来に向かって躍動する子どものイメージ」として、「町校の子どもの奏でる美しくてすがすがしい笛の音が、大空に向かってどこまでも広がっていく。この、静かで清らかで、そして力強い笛の音のように、広く広く高く高く大らかに、力強く未来に向かって羽ばたく町校の子ども」とされる子どもの像であった。以来、町校のシンボルとして、未来に向かって羽ばたく自分たちの姿として、町校の子どもたちに大事にされてきた。

この像に込められた意味を考えると、この像は町校の子どもそのものであり、自分自身の姿である。私たちは自分自身の姿であるこの像を見つめながら、これからの未来に生きる力を付けるために、毎日毎日を充実した満足のいく過ごし方ができるようにしたいものである。  以上のことから、私たちは私たち自身を表したこの像を大切にしていきたいと思う。この像を粗末にすることは自分自身を粗末にすることに通じてしまうので、大事にしていきたいものである。